みのる:花曇、春曇の季語がありますが、いづれも薄曇りの印象です。春しぐれのような雨が降ったりやんだりしているのかも知れませんね。空全体に薄雲が覆って滞っているように見えますが実際は動いていてうち仰ぐたびに場所が移動しているのに気づいたのでしょう。どこかが明るい…の措辞によって春愁の感じは払拭されていて春到来の喜びを実感している句ですね。

澄子:絹糸のような春雨でしょうか……驟雨が降ったり止んだり……捉えどころのない渺渺とした空そのものを感じました。中七「空のどこかが」が不安定さ一抹の危うさ儚さをかき立てます。

康子:これは、写生句だとすれば実際に、例えば桜が咲いていて空が明るく見えた…ということになりますが「どこかが」の措辞が気になります。春にはそこここに明るいものがある、ということでしょうか。もしかすると「空の」に心象が隠れているのかもしれません。「どこかが」の措辞から察すると「春は雨が降っていたとしても、いつも必ずどこかに明るい気持ちがある。私にはいつも空が明るく見える。そう思わない?だから私は春が好きなの」と言っているのかもしれません。

むべ:作者は春の雨の中傘をさして歩いているのでしょうか。なかなかやまないので、決心して外出したのかもしれません。いったん外に出てみると、空はそれほど暗くなく、むしろどこか明るくお天気雨にも近い空色です。晴れの天気ではなく、雨の天気にさえ、春の訪れを感じられるなぁ…そんな作者のつぶやきが聞こえてきそうです。しっとりと静かな佳句ですね。

かえる:桜の咲く頃の通り雨をイメージしました。空は曇っているけれど、真っ黒ではなく、薄ぼんやりと灯りを含んだような灰色の雲。雨の通り過ぎるにつれて、端から空は明るさを取り戻してゆく。桜の淡いピンク色も再び活き活きとし始める。どんよりと暗くなることのない、明かりを含んだような雨に、作者は春を感じ、心を弾ませているのではないかと思いました。

えいいち:客観写生か、心の景なのか・・なぜか不思議な感触を覚えます。作者自身、雨空のどこが明るいのか分からないのにどこかが明るいと感じているのでしょう…理屈では分からないのですが自分も感じたことがあるような気がします。何処かわからない雨空のどこかかが明るい・・不思議な景色ですが春だからなのかなあ、と思いました。