むべ:「鴨」が三冬の季語。「砲列のカメラ」がうまいと思いました。みなさんの講評にある通り、高価な望遠レンズつきのカメラが三脚に取り付けられ、ずらりと一列に並んでいる絵でしょう。カメラマンたちはさしずめ砲手ですね。鴨たちは思いっきり警戒して、砲列のある池畔から離れ、思い思いに潜っているのではないでしょうか。カメラマンたちと鴨たち、両者の相容れないやりとりにユーモアを感じます。カメラ好きの作者から見れば、寒い中お疲れ様という気持ちもあるのではないでしょうか。

康子:我が家の近くにカワセミが見られる池がありますがその状況が浮かびました。大砲のように長い望遠カメラが何台も同じ方向を見て並びます。迷彩柄のカメラもあるのでまさに大砲のよう。素人は足音を立てないようスマホのシャッター音も気にして写真を撮るくらい緊張した瞬間です。三冬の季語「鴨」はカメラをもて遊ぶかのように潜って遠くに逃げたかのような遊び心を感じました。でもかなり望遠のカメラなので離れてもきっと良い写真が撮れているのでしょう。潜って出てきた瞬間の写真は水しぶきもあってさぞ素晴らしいでしょう。カメラマンは「してやったり」と思っているかもしれません。たった十七音でカメラマンと鴨の駆け引きを楽しく想像できる句だと思いました。

あひる:鴨が三冬の季語。我家の近くの公園の池でも野鳥を撮る人が場所を選んでカメラを構えています。この句もどこかの池での出来事でしょうか。砲列のカメラに気付いた鴨は岸から遠いところに移動してしまったようです。鴨が水に潜ると黄色い足とお尻が水面に出て楽しい風景となりますが、シャッターを押すには遠すぎて残念です。寒い中でシャッターチャンスを待つカメラマン達の「残念!」の気持ちがカメラの数だけ伝わってきます。

澄子:「鴨」が三冬の季語。「砲列」は鴨に対してずらりと並んだ「カメラ」のレンズ。鴨の身になればなんとも威圧感のある落ち着かない情景だと想います。カメラのレンズが反射して光ることもあるでしょう……「潜く」から 私は単純に潜伏して湖岸から離れた処に再び姿を現した鴨を想像致しました。が さほど広くもない池ならば「潜く」は警戒心から自然な姿をみせぬ鴨ともとれます。いずれにせよ 「鴨遠し」に間近で静かに自然な鴨の生態を観察したかったのに残念だという思いを感じました。

かえる:鴨が三冬の季語です。砲列は一眼レフのカメラのレンズを比喩していると考えました。フォトジェニックな鴨の一瞬の映えを狙って皆が鴨に照準を合わせて構えますが、鴨はまるで恥ずかしがるようにそれに背き、砲列の下の映りにくい場所に潜り込み、撮られまいとします。なかなかシャッターチャンスをもたらさない鴨に、近くにいるのに遠いなと歯噛みするカメラマンたちの、ため息のような息づかいを感じます。

せいじ:鴨が三冬の季語。望遠レンズを装着した大砲のようなカメラが、列をなして池塘に並んでいる。レンズを通して見える鴨はときどき潜ってくれたりもするのだが、劇的な瞬間をとらえるまでにはなかなかいかない。それでもカメラマンはその時をじっと待つ。鴨は遠くにいるのだが、満足できる写真が撮れるまでの道のりもまた遠いのである。

えいいち:鴨が三冬の季語。鴨の姿を撮ろうとアマチュアカメラマンのレンズがずらりと並んでいるのですが鴨は知らんふりで餌を獲ろうと水にもぐったりしています。鴨と人間の生物としてのかけ離れた生態と詠まれた句のカメラマンと水辺の鴨の物理的な距離感に人を含む自然の面白みを感じました。