むべ:「悴む」が三冬の季語。祈りのスタイルは、仏教や神道では合掌することが多い気がしますが、キリスト教では両手の指を組むことが多いと思います。キリスト者の作者は、五指を互い違いに組んで、何やら一生懸命神に向かって祈りを捧げているようです。外は寒い風が吹いているのですが、祈りに必死で、指先の冷たさも忘れてしまうほどです。

あひる:悴むが晩冬の季語。実際には晩冬の寒さと冷たさに指が悴んでいるのだろうと思います。だからこそ両の掌を固く組んで、力を込めています。心に燃える熱い祈りが、悴むほどの冷えを忘れさせてくれるのでしょう。

えいいち:悴むが季語なのですが否定形になっています。ですので季節感というより隠された主観がメインの句のように感じます。

せいじ:悴むが晩冬の季語。寒さのために手足が凍えて思うように動かなくなることである。この句は、青畝先生の「ベツレヘムの星を思へば悴まず」という句を念頭においているのではないだろうか。五指を固く組んでいるのは、悴むほどの寒さのせいでもあろうが、本当は、藁にもすがるような思いで、ベツレヘムの星(=イエス・キリスト)に懸命な祈りを捧げているのである。祈りが聞かれたかどうかは別にして、祈りによって解放された喜びが伝わってくる。この句は大好きな句である。