えいいち:秋風が三秋の季語です。秋を求め幾人かで野山へ吟行、作句中の作者を想像しました。俳風を異にして佇っているのが作者であろうと他の方であろうと皆が秋の風に吹かれて自然と対峙して作句している姿はいいものだと感じます。季語がその人々の姿の爽やかさを感じさせ、裡の止めが風に吹かれている具体的な状況と切れ字のごとく詠嘆を表しているように思いました。

せいじ:秋風裡が三秋の季語。作者のいつもの俳風とは異なる俳句のように感じた。なぜ春風ではなく秋風なのか。秋風は、身に沁みてそこはかとなく哀れをそそる、と古人が言ったとか。そこから、虚子門下の4S(誓子、秋櫻子、青畝、素十)とそれらの流れにある人々のことを想像してしまった。作風を異にすると言って反目するのは悲しい。作風を異にしているけれども、みな俳句という文藝を愛している。だから、反目という哀れをそそるような「秋風」の中にあっても、俳句愛という同じ基盤の上に「佇ち」、力を合せて俳句の発展に寄与しようではないかとの思いが暗に詠われているように感じた。

あひる:何人かの仲間と秋のある日吟行に出掛けたのだと思います。俳句には本当に一人一人の個性が表れますね。同じ秋風の中に佇ちながら、出来上がる作品はみな趣が違ってきます。作者は今ふとその当たり前のことを当たり前とは思えない気持ちになって、この句を詠んだのではないでしょうか。そして一人一人の個性と、一人一人の佇む姿に愛おしさを感じ、また面白さも感じているのではないでしょうか。

えいじ:「秋風」は、三秋の季語です。秋風のなかを、ひととは異なる視線を注ぎながら、じっとそこにとどまっている自分がいる、という句だと思います。「俳風を異にして」という言葉は、作句の独創性につながるものだと思いますが、気負いなく表現されていると思います。さらに、「佇つ」という言葉に詩情と詠み手の本意をも感じます。宜しくお願いいたします。