あひる:八つ裂きも、雨の鞭もかなり過酷な状況です。しかも雨の鞭は「なおも」激しく打ち叩いているようです。打ち叩いている音も聞こえてくるようです。ここまで激しい言葉が並ぶと、もうこの大自然に身を任せるしか仕方がないという気がしてきます。大自然に身を任せれば大丈夫という気さえしてきます。八つ裂きでも雨の鞭でも、この芭蕉は決して死んではいないのです。

せいじ:芭蕉が三秋の季語。「八つ裂きの芭蕉」は破れ芭蕉のことだろう。風雨に破れ裂けた芭蕉の葉は痛ましいが、それに追い打ちをかけるように、強い雨が鞭のように降り注いでいる。すべては大きな摂理の中にあることを諾いながらも、見るも無残なこの情景を、歯を食いしばって直視しているのだと思う。

むべ:「芭蕉」が三秋の季語。「破芭蕉」という季語もありますが、ここでは上五「八つ裂きの」という措辞で、かなりボロボロに裂けている様子が想像できます。痛ましい、悲しい印象です。そこへ容赦なく雨が降る様子を「なほも雨の鞭」と表現しています。自然の摂理とはいえ、秋の深まりとともに植物が枯れたり朽ちたりしていくのは侘しいなぁという作者の気持ちを感じました。

えいいち:詠まれている芭蕉の状態は晩秋の季語の破芭蕉の状態のようにと思います。秋も深まるにつれ芭蕉の大きな葉も葉脈に沿って裂けてやがて茎葉も剥がれ枯れてしまいます。そんな切ないまだ緑の残る芭蕉の裂けている葉に追い打ちをかけるように雨が激しく打ち付けている、という情景を詠んだのだろうと思います。八つ裂き、鞭、というややもすると残忍と思える措辞に一瞬どきりとしますが作者はそんな措辞を用いるほどに枯れゆく芭蕉を強く憐れんでいるのだと思います。そして、その憐れみはさらに深い何かにも向けられているようにも感じました。

えいじ:「芭蕉」は、初秋の季語です。芭蕉は、大きくて薄い葉なので、葉脈にそって破れやすいのです。秋の強い風にずたずたにされた芭蕉の葉に、雨が鞭打つように降っている情景が浮かんできます。もしかすると、芭蕉は台風の強い風と雨にさらされているのかもしれません。もしそうなら、はかなさというより悲惨な印象です。宜しくお願いいたします。