むべ:「花野」が三秋の季語。「秋草」という季語もありますが、秋草が一面に咲き乱れている風景がこちらの「花野」で、視野の広さと奥行きのある季語です。それぞれが美しいのですが、それが偶然に生まれた美ではなく、創造者なる神によって装われた美であると作者は受け取ったのでしょう。花野が主役のようで、もしかしたら神が主役の句なのかもしれません。
えいいち:「花野」が秋の季語。神のみこころは人それぞれにその時折々に花野となって与えられている、というふうに解釈しました。秋の野原の美しさ、力強さ、可憐さ、虚しさ等々を秘めた自然は皆神が作りだすものですが、それを感じられることが私達が生きている証なのだと思います。
あひる:花野が秋の季語。春の野原とは違って、なにかもの寂しさの漂う透明な空気を感じます。散りばめられたように咲く秋の草花は、人の心を詩人にします。この世界をこのように美しく装わせて下さった、神の深い配慮をしみじみと感じながら、花野に佇む作者がいます。
せいじ:花野が三秋の季語。いま眼前に広がる花野の美しさは神によるものであると述べて、神を讃美している。新約聖書のマタイの福音書6章29~30節「…栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこのように装ってくださるのなら、…」を踏まえたものであり、また、「いま」は、旧約聖書の伝道者の書3章1節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」を踏まえている。