2020年10月

目次

10月21日

から松を枯らす虞れの山葡萄

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(からまつをからすおそれのやまぶだう)

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10月20日

大熟柿吸ひひやくひろを冷やしけり

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(おおじゆくしすひひやくひろをひやしけり)

合評
  • 「ひゃくひろ」は1尋の100倍。《きわめて長いところから》腸、はらわた。

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10月19日

灯ひとつコタンの秋の夕かな

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(ひひとつコタンのあきのゆうべかな)

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10月18日

秋風の柱をつつむ払子かな

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(あきかぜのはしらをつつむほつすかな)

合評
  • 払子は法要などの際に僧侶が持つ法具。もともとは蝿などの虫を払うためのもの。この句の払子は、はたきなのかなと思いました。柱のほこりを落としていたら払子の起こす風が秋風のように感じられた。 (素秀)

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10月17日

藁塚に一つ目小僧縛らるる

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(わらづかにひとつめこぞうしばらるる)

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10月16日

百舌の贄即身仏は法の贄

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(もずのにへそくしんぶつはのりのにへ)

合評
  • 百舌の早贄が干からびて木乃伊のようになっている。まるで即身仏のようではないか。即身仏は仏法の贄でもあるなあ。 (素秀)

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10月15日

天彦にあらそふ百舌鳥も暮れにけり

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(あまひこにあらそふもずもくれにけり)

合評
  • 「天彦」は「山彦」。「百舌鳥」は「鵙」とも書く。
  • 百舌鳥の声がやまびことなって返ってくる。それも次第に小さくなり今宵も暮れていくのだなあ。 (素秀)

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10月14日

目つむれば蔵王権現後の月

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(めつむればざおうごんげんのちのつき)

自選自解には、「私は蕭条たる吉野を見捨て難く登ったのだ。義経を憶い南朝をを悲しむのに最もふさわしいので、宿着のままで蔵王堂へと逍遥した。おごそかに締まる堂を背にして石階に腰を下ろす。後の月がしずかに照らしてくる。頬に明るく流れる光線を感じながら瞑目する。そうすると目ぶたのうらに真黒な体躯の、一方の足を宙に上げた蔵王権現の尊像が力強くやきついて見えたのである」とある。作者の自解で意を尽くしている。後の月と権現像との二つの異なるものの取り合わせが、まことに巧みでまるで絵画を見ているような感じを与えてくれる。「目つむれば」に作者の心の動きがあり、また、その言葉の語感が美しく瞑想に誘うようなひびきがある。まさに写生を超越した作品であり、幻想的で余情が深い。

合評
  • 後の月、この秋の最後の名月が山から上がってくる。目をつむれば蔵王権現の姿かとも思えるのである。 (素秀)

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10月13日

恐ろしきほど町高き下り梁

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(おそろしきほどまちたかきくだりやな)

河川を遡る鮎などを獲るための上り梁に対して、秋季産卵のために河口へ向けて下る落鮎などを獲るための仕掛けを下り梁という。ダムや護岸工事などが盛んに鳴るまでは、梁漁が各地の河川で行われていたが」、最近では観光客のための梁漁が多い。「恐ろしきほど町高き」だけで、他は一切省略されているが、人里離れた谷深い河川が想像できる。作者は谷底から仰向けに見た町並の高さと下り梁のある蒼い澄み切った流れとに焦点をしぼり、何らの修飾もせずに叙したのである。この単純な配合が却って効果を生み、晩秋の谷間の情景が連想され、また谷川の快い響きが微妙に躍動して行く秋を惜しむ情が」よく描かれている。

合評
  • 下り簗は鮎を獲る仕掛けです。当然、川に仕掛けるわけですが町が恐ろしいほど高いとはどういう事でしょうか。川から見て山の中腹かなり高いところに集落があり、それを見てすごい高いところに町があると言っているのでしょうか。 (素秀)

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10月12日

ある僧の頭陀ぺしゃんこや豊の秋

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(あるそうのずだぺしやんこやとよのあき)

頭陀袋の解釈は素秀解の通り。以前は、頭陀袋を首にかけて歩く修行僧を見かけたが最近は全く見かけなくなった。現在は、専門の学校教育を終了すれば僧侶になれるであろうし、またその後の修業にしても、その仕方が変わってきたものと思われる。この句が詠まれた昭和50年頃は、まだ修行僧がいたようである。作者はぺしゃんこの頭陀袋を首にかけて歩く修行僧の姿に、「豊作であるのに、何故頭陀袋がぺしゃんこなのだろう」と、そのときの心情を」詠んだのである。淡々とした詠みぶりの中に、深まりゆく秋のわびしさが感じられる。また「頭陀ぺしやんこや」という言い方に晩秋の哀感が込められている。

合評
  • 頭陀とはもともと僧侶の修行のこと。頭陀袋はこの修行を行う時に下げている袋です。喜捨されたものを入れたりするのですが、豊かな秋だと言うのにその僧の袋はぺっしゃんこで何も入っていないようです。 (素秀)

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10月11日

豊の田の中に高千穂峡がある

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(とよのたのなかにたかちほきようがある)

前書に「日向国見ケ丘」とある。高千穂峡は宮崎県の高千穂町にあり、『古事記』や『日本書紀』に出てくる天孫降臨の伝説の地でもある。豊の田は、風水害もなく、稲のよく出来た豊年のことをいう。現在は、米の品質改良、耕作法の改善、農薬などの発達によって、米が余り減反政策がとられ豊年の実感はなくなった。じつはこの句、ひいらぎ時代の勉強会で、「豊の田の中に高千穂峡がある」というのは、現実にはあり得ないことであるから、客観的な写生ではなく、心象風景を詠まれたものだという節があった。しかし、後日鑑賞分を青畝師に検閲して頂いた処、実は旅の帰りの飛行機のなかでの離陸時の窓景色を写生されたものだとわかった。高齢になられても好奇心と探求心を追求される姿勢に一同頭が下がったものである。

合評
  • 高千穂峡を訪れた青畝師、山間を抜けていくと棚田があちこちにある。どの田も稲穂が実り豊作である。 (素秀)

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10月10日

モジリアニの女の顔の案山子かな

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(モジリアニのをんなのかほのかかしかな)

鳥獣の害を防ぐため田畑に立てられる案山子は、昔は鳥獣の肉や毛を焼き、その悪臭を嗅がせて追い払ったことから「嗅がし」といったとも言われる。最近は、いろいろ個性的な案山子が作られ地域おこしのコンテストなども行われる。作者は単なる女の顔の案山子を見て、首の長さにイタリアの画家モジリアニが描いた女の顔を直感したのであろう。そしてモジリアニが描いたと言わず、「モジリアニの女の顔」と叙した。秋の風物である案山子に絵画を配したダンディーな作風には、柔軟な美意識を感じさせられる。自註・阿波野青畝集には、「最近はモダンな案山子が多い。服地が変わってきたからである。この案山子は首が伸びすぎモジリアニの女に見えた」とある。

合評
  • モジリアニの女と言えば、細面で首が長い特徴があります。田んぼに立つ案山子の顔にモジリアニを見た青畝師はニヤッと笑ったのでしょうか。 (素秀)

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10月9日

惨として破れたるこの城の蓮

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(さんとしてやぶれたるこのしろのはす)

自註・阿波野青畝集には、「城堀に沿うて一巡した。破れた蓮は何ともたとえよう無く惨憺と荒れてしまった。城を守った昔の武士の頃を想像すると一種の悲壮を覚える」とある。この作品を読んで、芭蕉の「夏草や兵どもがゆめの跡」が思い出される。下五の「城の蓮」の「城」は「城堀」を意味するが、作者が敢えて「城」と叙したのは、単に字数のことだけでなく、城堀に無残な姿をさらしている破れ蓮を見て、この城と運命を共にした当時の武士社会のことを思い浮かべながら、そのあり方に一抹の哀れさを感じたからに違いない。そのことは、上五の「惨として」からも想像できる。一方、その時季には城堀の水も澄んで、雲のない空や天守閣などが映るようになり、哀れさとは違った一つの風情を味わうことができる作品でもある。

合評
  • 城址に残るお堀なのかと思います。破れ蓮が無残にも立ち並んでいる。お城の栄華も過去の事とだと。 (素秀)

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10月8日

葉末なる螽も顔を隠すなり

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(はずゑなるいなごもかほをかくすなり)

自註・阿波野青畝集には、「稲田の畦みちの露をふんで歩く。螽が何匹となく葉にずがりついてこれも露まみれだ。私が側へよればくるりと螽が顔を隠す。手を出せば飛ぶ」とある。とのさまばったを小型にしたような昆虫で、体調は3センチほどあるが後肢がよく発達していて、飛翔もするし跳ねる力も強い。田圃や草原などにたくさん発生し稲を食べてしまう害虫である。第一腹節部に聴覚器があるからであろうか、人の気配がするとすぐに隠れるほど敏感で鳴かない。最近は農薬などの影響で激減したが、この句が作られた頃は、秋になると螽を取り、炒ってつけ焼きにしたり、佃煮にして食べたいう。細い葉末に顔を隠そうとする螽を叙したところに無邪気なユーモアがあり面白い。

合評
  • 葉の先端に取付いたイナゴに手を伸ばそうとしたら葉裏に隠れた。恥ずかしがって顔を隠すようではないか。 (素秀)

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10月7日

初紅葉遮るものにつゞりけり

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(はつもみじさえぎるものにつづりけり)

『「万両」全釈』のなかで、森田峠師は「初紅葉が、さえぎっているものの合間合間にちらちら見えて、まるで赤い綴じ糸で綴ったようだよ」と釈している。初紅葉は、その年に初めて見る紅葉である。初紅葉の初の一字に、飯田龍太は「季節を賞で迎えるこころばえがある」と言っているが、まさにこの一字が秋の微妙なうつりかわりを感じさせてくれるのである。紅葉といえば楓に代表されるが、楓は晩秋であり、初紅葉はいち早く紅葉する桜か、それにつぐ櫨・漆・白膠木などの類であろう。句そのものは単純な構成だが、大自然の多くの事物の中から初紅葉のみを採りあげ、何らの修飾もなく一気に「遮るものにつづりけり」と叙したことにより、その表現に自然描写から生まれた力強さが加わり、秋の自然の息吹が伝わって味わいのある句となった。

合評
  • つづりけり、は綴るではないかと思います。初紅葉の頃ですからまだ緑の木々の方が多い山を、紅葉の赤や黄が繋ぐように見えるということではないかと思います。 (素秀)

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10月6日

秋の谷とうんと銃の谺かな

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(あきのたにとうんとじゆうのこだまかな)

森田峠師は、著書『青畝句集「万両」全釈』のなかで、「秋の谷という言葉に、爽やかな大気を感じる。その爽やかな谷に、猟銃音が起り、こだましたのだ。とうんという寸づまりな擬音語が、一発の短い銃声をよく伝える」と評し現在の猟解禁は、凡そ11月のようであるが、この句は大正13年の作であり、戦前の猟解禁が10月15日であったので、それ以降の作である。山と山に挟まれた細長い谷間に、静寂を破るかのように一発の猟銃音が起こったのである。とうんというスローモーション的な感じさえする清音が、谺となって澄みきった谷間に吸い込まれるように尾を引いて消えようとしない。そのとうんという音律が澄みわたる秋季を伝えてくれる。静と動とのみごとな調和に、格調の高い句となったのである。

合評
  • これは有名な句ではないでしょうか。秋の谷で聞こえて銃声がこだまとなって反響している。少し遠くの銃声かなと思います。とうん、という擬音はもうこれしか考えられなくなるほどです。 (素秀)

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10月5日

十字架を象嵌したる天高し

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(じふじかをぞうがんしたるてんたかし)

北海道当別のトラピスト修道院での作。この句は、大気の澄み渡った青空にキリスト教徒のシンボルである十字架を象嵌したという意である。著書「俳句のよろこび」の自註には、「澄みきった空に嵌め込んだような十字架の神厳さ」とある。写生を超越した作者の発想は、抽象的な絵画のような感を与えてくれる。凡そ「客観写生」とはかけ離れた」逆説的な詩といえるのではなかろうか。

合評
  • 象嵌はひとつの素材に別の素材を嵌めこむ工芸技法。教会の屋根の十字架が秋空に嵌めこまれたようにあったのを、象嵌という言葉でより一体感があるように感じさせる。 (素秀)

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10月4日

秋天の釣橋を人つづかざる

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(しうてんのつりばしをひとつづかざる)

自註・阿波野青畝集には、「磧に下りて空の青さを見上げると釣橋が宙ぶらりんに見える。二三人静かに渡ると左右に揺れてしずまるまで時間があった。次の人はまだこない」とある。前書きに「黒部峡谷」とある。釣橋の高さがどのくらいかよく知らないが、自註に「宙ぶらりん」とあるから相当高いように思われる。また「人つづかざる」から想像すると横揺れも酷いようである。磧に下りて澄み渡った秋の青空を見上げると、怖いほど高く感じられる。遠くの山々も大気が澄みきって鮮やかに見える。その中にあって釣橋も一段と高く見えるのである。この句は、ただ釣橋の高さを詠んでいるだけではなく、「秋の空」「秋高し」「秋澄む」などの秋空の特色を詠んでいるように思われる。

合評
  • この吊橋は人が渡ると揺れるようなものなのでしょう。何人ものが同時に渡ると大揺れするものですから待っている。秋の観光地の吊橋、祖谷の葛橋を想像します。 (素秀)

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10月3日

天高しされど貧居の簷剪らず

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(てんたかしされどひんきよののききらず)

「貧居」は「まずしい住い」、「簷」は「軒」と同義、「簷剪らず」は、藁屋根の軒端を剪らないで、葺きながしの状態を言うのである。10月の半ば過ぎる頃より天候も定まり、肌寒い感じもあるが山々は紅葉して美しい。霜が降りる頃には一段と鮮やかさを増してくる。その反面、原始的な葺きながしの藁屋根のたたずまいに感傷を誘うものがある。「されど」の接続詞が効果的で余情があり、深まっていく秋の寂寥感を与えてくれる。自註句集には、「韓国の田舎には貧しい藁屋根も少なくなかった。棟が丸く軒端は葺きながしのいかにも原始的、それにパカチの実が載り秋晴の日に光っていた」とある。

合評
  • 秋の日本晴れである。だが我が家は茅の庇も揃えぬほどの慎ましい生活をしていることだなあ。とはいえ貧乏暮らしを嘆いているわけではないようです。 (素秀)

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10月2日

赤い羽根つけらるる待つ息とめて

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(あかいはねつけらるるまついきとめて)

自選自解・阿波野青畝句集には、「花売娘のように、真赤な羽根をたくさん挿した箱を胸にかけて来るので一寸ためらいを感じた。今日からはじまる共同募金に気づいて、早速十円玉一つを少女に渡した。サービス精神に富む彼女は私の胸の位置を見定める。それから襟元にひらひらする一本の飾りをつけ一礼してくれた。その数秒間を長い時間に思われて息を止めていた私であった。少女の芳しい体臭をかげばよかったが、後のまつりであった。異性への好奇心にまだ小さい羞恥をもっていたのだろう」とある。作者の自解で意をつくしているが、このような経験は誰もが何度かしているに違いない。「息とめて」の下五は、作者自身の性格の描写で、ロマンチックな情景がよく描かれ、叙情味の深い作品となっている。

合評
  • これは青畝師が赤い羽根を付けて貰っているのか、それとも付けて貰っている人を見ているのか、どうも付けて貰っている人を見ているのだと思います。赤い羽根を差してくれるのを妙に緊張して、胸を差し出して待っている。息も止めているかのように見えて可笑しかったのだと思います。 (素秀)

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10月1日

赤い羽根させるお洒落のルンペン氏

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(あかいはねさせるおしやれのルンペンし)

毎年10月1日から末日までの一ヶ月間、駅頭や街角などに学生や婦人団体の人などが列び募金活動を行う。募金に応じた人の胸に赤い羽根を挿してくれる。この句は、その赤い羽根を挿したルンペン氏を叙している。ルンペンとは失業者か浮浪者のことであり、まさかルンペンが募金したとは思えない。どこかで拾って挿したのであろう。作者は赤い羽根を挿しているルンペンに興味をもった。氏は、第三者を尊敬していう言葉である。社会福祉活動の一環として行っている共同募金活動に、ルンペン氏も賛同しているかのように赤い羽根を挿しているのを見て、氏をつけてお洒落のルンペン氏と詠んでみせたところが面白い。

合評
  • ルンペンという言葉はもう死語に近いのかと思います。今で言うと浮浪者やホームレスになるのでしょうか。そんなルンペンが赤い羽根を胸に差している。拾ったのか貰ったのかは判りませんが、ちょっとオシャレにも見えて滑稽だったのかも知れません。 (素秀)

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