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目次

9月19日

去る者を追はず天下の子規忌かな

合評掲示板

(さるものをおはずてんかのしききかな)

合評
  • これは背景を知らないと読み取れないのかも知れません。去ったのは誰なのか。頭に浮かんだのはホトトギスから離れた水原秋桜子ですが、はたしてそうなのか。 (素秀)

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9月18日

寝待月雲より落ちて照らしけり

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(ねまちづきくもよりおちててらしけり)

合評
  • 19日目の月。うとうとと寝てしまった。気が付いたら雲の切れ目から月が覗いているではないか。まだまだ明るいものだなあ。 (素秀)

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9月17日

養命酒ちびちび舐めて居待月

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(ようめいしゆちびちびなめていまちづき)

合評
  • 18日目の月、少し待たないと上がってきません。養命酒など飲んで待とうかと。ただ時間があるからと飲みすぎてもいけないので舐めるように飲んでいます。 (素秀)

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9月16日

立待月咄すほどなくさし亘り

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(たちまちづきはなすほどなくさしわたり)

合評
  • 投稿いただいた記事は編集してここに転記されます。

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9月15日

十六夜のきのふともなく照らしけり

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(いざよひのきのふともなくてらしけり)

合評
  • 十六夜に月を見た。昨夜の月に比べても遜色の無い良い月であることよ。 (素秀)

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9月14日

けふの月長いすゝきを活けにけり

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(けふのつきながいすゝきをいけにけり)

合評
  • 月見の準備にススキを生けた。名月には長いススキがよく映える。 (素秀)

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9月13日

初汐の伊根は舟小屋ばかりかな

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(はつしおのいねはふなごやばかりかな)

合評
  • 伊根の舟屋は有名です。秋の大潮で満ちた海と舟屋は風情のあるものです。 (素秀)

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9月12日

月の山大国主命かな

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(つきのやまおおくにぬしのみことかな)

名詞と助詞だけというのも珍しいが、「山又山山桜又山桜」のように漢字だけの句もある。青畝師の本心は、物珍しさより、この句の「しほり」を味わって欲しいというのが本音ではないかと思う。解釈は「満月の照らし出す山を大国主命と思って拝した」となろうか。この句の詠まれた大神神社は大和一宮として、昔から大和地方の信仰の中心である。この神社には神殿は無い。三輪山そのものがご神体である。山の姿は美しい円錐形であるが火山ではなく、侵食から残ったもので、大和の何処からも見える円やかな山である。

三輪の祭神は大物主神、大国主命との関係は和御魂と荒御魂とも聞く。しかし青畝師にとってはどうでもよい事、神々しく月に照らし出されたお山を拝した時、とっさに大黒様とも呼ばれる大国主命と見たのである。いつ読み返しても新しさを感じさせる不思議な句である。

合評
  • これは少し難しい句ではないでしょうか。大国主命は月の上る山の方なのか、それとも月の方に例えているのか。月の方なら山を越えて大国主命が現れたとも読めます。どっちなんでしょうか。 (素秀)

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9月11日

一つ家のその市振の月に吾

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(ひとつやにそのいちぶりのつきにわれ)

芭蕉の奥の細道のなかで特に注目される章の一つに「市振」がある。曾良の旅日記によると、「親知らず・子知らず」の難所を無事越えた芭蕉主従は、陰暦七月十二日、越中市振に宿をとる。その時、図らずも二人連れの越後の遊女と同宿、二人の儚い話が襖越しに聞こえ、翌朝道連れになって欲しいと懇願されるが、不憫と思いつつも因果を含め、袖を振り払って出立するという設定である。設定というのは連句の恋の句に因んだ芭蕉のフィクションというのが定説だからである。

一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉

青畝師はこの一節を特に好み、しばし弟子の前で朗読して聞かされたという。「芭蕉と遊女が泊まった、あの市振で、今私も芭蕉の見たのと同じ月を眺めていることよ」という。青畝師の高ぶった気持ちが読者の心にひしと伝わってくる句である。

合評
  • 芭蕉ゆかりの市振、一つ家に遊女も寝たり萩と月、から市振を訪れた青畝師がその一つ家に自分も今いて月を見ているのだと感慨に浸ったのでしょう。 (素秀)

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9月10日

小さき奴児分顔して放屁虫

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(ちさきやつこぶんがほしてへひりむし)

青畝師には滑稽句が多い。「俳諧」の「諧」が「諧謔」である以上、当然と言えば当然である。

をかしさよ銃創吹けば鴨の陰(ほと) 『万両』

が初期のものであれば、晩年には、

初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり 『西湖』

のような巧まざるユーモアの句がある。関西人特有の滑稽句という声もあるが、結構関東でも受けていた。川柳の末摘花のごとく下品では無いからであろう。気品のある滑稽句と言うべきか。この句も材料は、あの悪臭を放つ虫の世界のスカンクといわれる放屁虫である。名前からして滑稽であるのに、普通ならば「親分顔」というところを「児分顔」と言っている。そのとぼけた意外性が面白い。俳壇では何々調といった7、弟子が師匠を真似るのが普通、それ故何処の結社と直ぐ見当がつくものもあるが、青畝調だけは誰も真似ることが出来ない。

合評
  • 放屁虫はカメムシなどの俗称が季語になったもの。割と群れていることがあり見かけたら何匹もいることが多いようです。小さいカメムシがくっついているのを見て子分顔をしてるぞと思ったのでしょう。 (素秀)

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9月9日

台風を退散せしめ天狗杉

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(たいふうをたいさんせしめてんぐすぎ)

昔は台風の事を「のわき(野分)」と呼んだ。野の草を分ける風という意味である。意味は同じでも言葉のニュアンスが違う。特に言葉を大事にされる青畝師は、はっきり使い分けておられる。最近は気象観測も進み、コンピューターにあらゆるデータをインプットして分析するため、規模や進路の予測も随分正確になった。それでも大自然は時には思わぬ動きをする。「まともに来ると予報されていた台風が奇しくも逸れたのは、天狗杉即ち天狗の神通力が風魔を退散せしめたのだ」という素朴さがなんとも面白い。この句は大山での青畝句碑除幕の折の句である。しかし天狗杉は各地にあり、それぞれ天狗にまつわる民話を残している。何処の天狗杉も勿論巨大である。そんな杉に吹き付ける風は、野分よりも台風が相応しい。

合評
  • 杉の巨木はどこの地方でも神木として崇められています。この天狗杉はどこの神木なのでしょう。台風にものともせず堂々と立っている様が台風を追い払ったように感じたのです。 (素秀)

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9月8日

灕江あり有明の雁二三行

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(りこうありありあけのかりにさんかう)

青畝師中国旅行の句である。桂林を抜きにしては中国旅行は語れない。絵をよくする作者は、その奇景を最も楽しみにしていたはず。念願の景に会い得た青畝師は灕江に配するに「有明の雁」と「二三行(かう)」という漢詩趣向の言葉を以て一句に纏めた。如何にも訪中句らしい。実はこの雁についてある人が訪ねた所「雁でなかったが小鳥が飛んでいた」と答えた由。要するに青畝師の考え方は、フィクション(虚構)ではなく、デフォルメ(変形)で、芭蕉以来多くの俳人が使っている構成ということらしい。これを青畝師は別の言葉で、「数多の経験に基づく写生であり、これも写生である」と言われている。

合評
  • 漓江とは中国は桂林の漓江でしょうか。だとしたら有明を飛ぶ雁の列を見てまるで漓江の景色のようだと感じたのかと思います。 (素秀)

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9月7日

蟷螂はなびける萩の落し物

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(かまきりはなびけるはぎのおとしもの)

何の説明も要らないような至極明快な句である。俳壇にはこの句を「萩」の句とする考えもあるが、「落し物(かな)」と切れ字の省略と見たい。従って「落し物(=蟷螂)」に力点があり、先出の「蟷螂」が主たる季語であると考える。かつらぎ庵の庭には萩が多かった。青畝師をして「萩大名」と言わしめ、蓑虫までが萩の花を羽織る、そんな一面に萩の花の靡く庭であった。その萩から一匹の虫が零れた。二年後に、

蟷螂は狐のごとく歩みけり 青畝

と詠まれているが、逆三角形のあの顔といい、小さいながらも斧を振りかざして相手に向かう姿といい、どことなく愛嬌者である。さらりと詠んで、萩に配するに蟷螂を「落し物」と見立てた所などは実に微妙に心に響く一句である。

合評
  • かまきりが落ちてきた。ふと見ると萩が揺れているではないか。これは萩の落し物であるな。ただかまきりが落ちてきた事だけですが、萩の落し物という事でなんとも詩情あふれる物語になっています。 (素秀)

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9月6日

青畝よむ数の間ちがい鉦叩

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(せいほよむかずのまちがひかねたたき)

鉦叩はこおろぎの、1センチにも満たない小さな虫であるため、実際にその姿を見ることは稀である。ない超えは印象的で、チン・チンと小さな澄んだ声で十数回続けて鳴く。その鳴き声から鉦叩の名がある。鍛冶屋虫と言われたこともあるらしい。蓑虫がなく言うのは実はこの虫のことであったとも言われる。その鉦叩の鳴く数を青畝師自身が数えていたが、読み違えたと言っている。「数の間違い」というのは誰か正確に数えた人が側にいて、突き合わせた結果間違っていたと言うのであろうか。「青畝よむ」の「青畝」には何か自嘲の思いがあるように思える。少年時代の中耳炎の手術の失敗から一生難聴という枷を背負った青畝師である。何でも意欲的に詠まれたが、やはり虫の音を詠んだ句の少ないことに寂しい思いがする。

合評
  • 鉦叩の鳴声の数を数えていて間違ったのでしょうか。鉦叩の声に耳をすましていたのでしょうね。 (素秀)

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9月5日

もげし肢もとに還らずきりぎりす

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(もげしあしもとにかえらずきりぎりす)

当たり前のことを当たり前に。一度もげた虫の足が再びくっつくことの無いことぐらいは、誰もが知っていることである。しかし俳句では当たり前過ぎて忘れていたことを詠まれ、強い驚きを受けることがままある。この句にはそんな驚きと、その後深い「あはれ」徐々にが広がってくる不思議さがある。「きりぎるす」は古くは蟋蟀であった。

むざんやな甲のしたのきりぎりす 芭蕉

の「きりぎりす」は勿論蟋蟀である。きりぎりすは「チョン、ギース」と繰り返し鳴くため「はたおり」とも呼ばれるが、その鳴き声には野趣がある。盛んに足を動かすため、足がもげやすい。幼少の頃、捕まえて遊んだ「懐かしさ」と共に、いま一人の俳人として眺める「をかしさ」と「あはれさ」の入り交じった感慨が漂う一句である。

合評
  • 晩秋かと思えます。キリギリスの寿命も尽きかけているのでしょう、肢も取れ満身創痍の体でそれでもまだ跳ねようとしているのです。 (素秀)

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