やまだみのる

季語について

季語を扱う上で注意することがいくつかあります。

  1. 一句の中に季語は一つ
  2. 季語が動かないこと
  3. 季語の説明をしない
  4. 季語が憑き過ぎないこと

ほかにもありますが基本的なことは4点です。折々説明しますが、今日は 4.の「憑きすぎ」について学びましょう。

一例をあげて説明します。

石鎚や青々として梅雨明ける

山が青々として見えて、ようやく梅雨が明けたんだなぁ・・というのが句意ですが、これは○○だから△△だ、という季語の説明になります。

「季語」は説明しなくても固有の味を持っています。俳句という芸術の伝統が年月を経てそれを育ててきたわけです。季語の働きが香味料としての仕事をしてくれるので、わずか十七字でも深い深い味が出せるのです。

「季語が憑き過ぎる」というのは、採用した季語があまりにお膳立てが整いすぎている場合をいいます。作った本人は自分の句に酔ってしまうので判らないのですが他人が鑑賞するとすぐ判ります。

一方、季語が離れすぎても「季語が動く」の評価になるので、「つかずはなれず」の微妙な斡旋が求められます。

もちろん句を詠みながらそんな事を考えている余裕はありませんから、あとで推考するときに、「季語が動かないか?」「憑きすぎていないか」をチェックするのです。

初心のあいだはその基準が身についていないので添削でお手伝いしているわけです。拙作で恐縮ですが次の作品を鑑賞してみてください。

温泉を引けるパイプなるべし草紅葉 みのる

「温泉」は「ゆ」と読みます。

草紅葉の説明は一切していませんが、情景をより具体的に表現するのに「草紅葉」の季語はとてもよい働きをしているのが解ります。

初心のうちはまず季語を覚えること必須です。しかし次なるステップは、その季語のもつ本質を研究して的確に用いることが上達のキーポイントです。

(2000年07月07日)