俳句は授かるもの

やまだみのる

作句の壺シリーズ

俳句は頭で考えるのではなく心に感じたことをことばで表現する者です。その意味では神さまへの祈りによく似ていると思います。

美辞麗句を考えて、聴く人の耳に心地よい(祈る本人にとっても)聞かせるための祈りは本物の祈りではないと思います。たとい表現や言葉は拙くても、神を信頼した心からの祈り・叫びは必ず神様に届くと信じます。 感動を写した俳句はその表現が多少拙くても鑑賞する人のこころに響きます。雑念をはらい心を無にして自然に対し、じっと祈り心に観察していると自然のほうからこちらに語りかけてきます。

なぜ空は青いのだろう、どうして雲は白いのだろう、なぜ神さまはこんな小さな昆虫を作られたんだろう、なぜこの草は枯れるんだろう、いろんな思いが湧いてくるはずである。 ふと聖書のみことばを連想して納得することもありますし、ふと子供のころのことやふるさとの事を思い出すこともあるでしょう。将来の夢が湧いてくることもあり、悲しさや苦しさを慰めてくれたり勇気を与えられることもあるでしょう。そうしたいろんな心のひびきを言葉に置き換える。これが俳句なのです。

経験を重ねれば同じ感動でも上手に表現できるようになります。表現を工夫することは「添削」でいくらでもお手伝いできます。でも添削者が作者の代わりに感動すると言うことは出来ません。 ですから感動を捉えていない句は添削出来ないのです。

"経験が未熟だからいい俳句が出来ない・・・"

それは違います。神さまが生まれながらに備えてくださっているはずの感性・感じる心を忘れてしまっているから良い俳句が出来ないのです。 祈り心を以って自然と対してみてください。自然のほうから語りかけてくるまで1時間でも2時間でも我慢してみてください。必ず良い俳句が生まれます。

正確に言えば俳句は自分で作るものではなく、自然から(神さまから)授かるものなんです。

(2000年06月17日)

 
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