やまだみのる

俳誌「ホトトギス」の公式ホームページに公開されていた、 ホトトギス百年史は興味深く読みました。その中に面白い記事を発見!(*^。^*)

"誓子「かつらぎ」で「花鳥風月を詠み人事現象を疎略にするのは誤り」と。"

昭和八年、山口誓子が俳誌「かつらぎ」に、こう提唱したことが記されていた。 おそらくこの一文の趣旨の是非について、当時は随分議論が沸騰したことと思う。 たぶん、GHの参加者の中にも同様の思いを持っておられる方がいることでしょう。

伝統俳句の継承を目的とするGHは、もちろん花鳥風月を詠むことを第一に奨励しています。 しかし、決して人事現象を疎略(おろそか。ぞんざい。なげやり。)に扱うということではありません。 本当に深みのある人事句というのは徹底した客観写生の修練に寄らなければ完成し得ないと思います。 つまり、俳句入門の入り口として、「花鳥風月」と「人事現象」の二つがあるとしたとき、 花鳥風月の門から入る方が正しい俳句姿勢を身につけることができるということをぼくは信じて疑わないのです。 さらに、一度入門の入り口を間違うと、もう後戻りできないとも思います。 そうした経緯で俳句を挫折していった人を何人も知っているからです。

誓子が書いた記事の内容がどんなものかわかりませんが、後に<人間探求派>として、 客観写生に偏った「花鳥諷詠」から離れて、人間の生活や感情の新鮮な表現を求めた山口誓子(句集「凍港」は有名) の動向のはしりが、この百年史から窺うことができました。 ぼくは40歳の頃、偶然、雑誌で見つけた広告をたよりに右も左もわからずに俳句入門を志しました。 いま振り返ると本当に不思議だと思うのですが、 高浜虚子-阿波野青畝-小路紫峡と受け継がれてきた客観写生の師系に導かれている自分を幸せだと思います。

(2002年5月4日の日記より)