やまだみのる

きょうはひとりの句会メンバーからとても嬉しいメールを頂いた。

添削や投稿句の選は決して疎かに出来ないのでとても神経を使う。だから添削や選句の結果を読者の方がどのように受け取られているかということはとても気になるし、投稿された方がどんな期待感をもってこのページを開かれるかと思うと、何とか一句でも添削して選びたいと何度も何度も見返すのである。

今日頂いたメールには始めは理解し難かった添削の内容も、回を重ねるごとに少しずつその意図がわかるようになってきたと仰ってくださった。添削の意図を汲んでいただいて、そしてそれを受け入れていただけるというのはとても幸せなことで指導者冥利に尽きる。

学ぶということは「信仰」と同じだというのがぼくの持論である。指導する側とそれを受ける側との信頼関係があってはじめて実を結ぶもので、疑心のまま学ぶことは空しい。ときどき、原句のどこがどうゆう風にいけないのか等々論理的に説明してくれと食い下がられる方がある。もちろん説明はできるが、そうした議論や知識を重視する姿勢は創作の邪魔になるということを何度も説いているのをなぜ信じていただけないのかと悲しくなる。忍耐して開眼されたみなさんからのメッセージによって一人でも多くの方に信じて頂けるではとも思う。

(2001年4月4日の日記より)