康子:「冬日」が三冬の季語。あっという間に日も暮れてしまい、気がつけば周りには誰もいない。作者はこの際この「冬」の侘しさを1人ベンチで、その「孤独」を楽しもうかと考えている。季語「冬日」により、誰もいない公園のベンチに木枯らしが吹いている様子や、薄暗いベンチで1人座っている作者の様子が浮かび、侘しい冬の様子がさらに想像できる句だと思いました。

かえる:冬日が三冬の季語です。冬日が退き、子どもたちはすでに家路に着き、賑やかだった公園も今ではしんとしています。作句に没頭し過ぎたのか、腰を伸ばしてベンチから立ち上がれば、あたりにはすっかりひとの気配がなく、急に寂しさが込み上げてきます。冬は暮れだしたと思うと、あっという間に真っ暗になってしまいます。ほんの数十分の間にかき消すようにひとがいなくなる様を切り取った句なのではないかと思いました。

澄子:「冬日」が三冬の季語。短日そのものを詠まれた句のように思いました。日中の時間の短さ……日が退けばたちまちそこ「ベンチ」は冷たくなり 程なく周りも昏くななり そして「ベンチ」に取り残されてしまった自分…………ごく自然に「孤独」という感情が作者を包んだのかもしれません。「冬日しりぞき」と「我孤独」の取り合わせがごく自然で素直な御句と思いました。

えいいち:冬日が三冬の季語。冬日は日差しの事だと思います。日が沈んでしまい残照の中、それまで暖かっかったベンチもじんわりと冷え込んできている感じがします。そしてその冷え込みに同期するかのように作者の心もじんわりと孤独感が沸き起こってきたのかと思いました。

せいじ:冬日が三冬の季語。ベンチに一人、日向ぼっこをしていたのだが、冬日が当たらなくなったことによってはじめて、冬日がそれまでずっと自分に寄り添ってくれていたことに気付いた。冬の日差しの中にいれば孤独を感じることはない。冬日のありがたさをしみじみと感じているのではないだろうか。

あひる:冬日が三冬の季語。冬日でいくらか暖まっていたベンチも、日が翳ってくると見る間に冷たくなります。作者は一人でそこに座り孤独です。孤独は寂しさと共に色々なことを思わせてくれる大切な一人の時間です。他人が居たら気が付かないような自然の小さな営みに気が付き、何気ない風景から思いがけないインスピレーションを受け取ります。孤独という措辞の奥に、しみじみとした世界が開け、慰めも得ているのではないかと感じました。

むべ:「冬日」が三冬の季語。この季語には大別して「冬の一日」という意味と「冬の太陽、冬の日差し」という意味があるようです。ここでは後者でしょう。冬の太陽が没するか没した直後くらいのイメージで、寒い・冷たいという語はないのですが、冷え冷えとしたベンチの感触がよく伝わってきます。そして作者はそこに一人で座っているのです。「孤独」には主観的な印象がありますが、調べてみるとひとりぼっちでさびしいという形容詞の他に、「寄るべなき身」という名詞としての意味があるそうです。なお、余談になりますが、英語で孤独の名詞はいくつかあり、lonelinessだとたださびしいだけなのですが、solitudeには一人で内省や思索をするポジティブな意味があります。もしかしたら作者は孤独を享受していたかもしれないなと感じました。