康子:枯山の裾野から見ている光景でしょうか。雲の流れが早く、その影法師が自分の足元から枯山に向かい、そして山を舐めるように登っている。既に枯葉となり誰も登らなくなった山だが、影法師がまるで生きているかのように登っている、という句意なのでしょうか。句が静止画ではなく動画のように感じます。枯山に命が吹き込まれているように感じました。

澄子:「枯山」が三冬の季語。このような情景を実際目撃したことがあります。私が見たのは標高二百メートルにも満たぬ丘陵のような山の斜面をまるで生き物のように影が駆け上がってゆく様子でした。束の間見とれてしまいました。冬空の青と白のコントラスト、澄みわたった空気が感じられ 「影法師」という表現がこの句を魅力的なものにしていると思いました。

かえる:枯山が三冬の季語です。雲の影帽子とあることから、積雪はなく、ふんわりと落ち葉を被った、からりとよく晴れた山道を想像しました。流れる雲で時折日光が遮られる様を雲の影帽子と表したのではないかと思っていますが、こんな表現の仕方があるのだなと大変新鮮に感じています。登山ではなく、緩やかな散歩道を有する裏山。雲をお供にして日課の散歩を楽しむ、そんな光景が浮かびました。

あひる:枯山が三冬の季語。山に雲の影が映っていることに気がつくのは、ゆったりと心に余裕がある時だと思います。作者はその影が動いて山頂へと近付いているところまで見ています。さっと見て、直感で詠んだ句ではなさそうです。雲の動きと作者の心の動きがゆっくりと調和して、言葉選びも明るく、小春日和の風景を思い浮かべました。

えいいち:枯山が三冬の季語。草木の枯れた冬山を眺めていると、あれ、こんな時期に山を昇って行く人が見えるぞ、と思ったらそれは雲の影ではないか、という雲の流れの面白さと人気のない枯山の寂しくも美しい自然の姿が思い浮かびました。

せいじ:枯山が三冬の季語。枯山は裸木ばかりになって山肌があらわになった冬の山。よく晴れた冬の日であろう。枯山に雲の影が映り、雲の動きにあわせて、影も山を登るように移動して行く。凛として美しい冬の一風景である。

むべ:「枯山」が三冬「冬の山」の子季語。やや遠景の句だと感じました。「枯山」というからには、おそらく落葉樹の多い山で、冬になり山肌・岩肌がむき出しになっています。そこに映っているのは、空に漂う雲の影。山頂へ向かって登っているように、作者の位置から見えたのはないでしょうか。遠目に影がはっきり認識できるということは、穏やかな冬晴れで、山は静まり返っており、雲は滑るように流れ、雲の影もゆっくりと頂へ。時間の流れもゆったりしているようです。