澄子:「沼涸れる」が三冬の季語。沼底にあらわれた亀甲模様は自然の造形として美しくもありますが、やはり水が干上がるのはゆゆしき事態。たとえ一時的にせよ水生動植物にとっては死の世界。近くの公園で池浚えに出くわしたことがありますが 独特の臭気もあります。下五「涸れなんと」にますます涸れゆく沼の様子を想いました。冬の乾いた空気感と諦観というのかあるがままを傍観している作者の視線を感じました。

むべ:「沼涸る」が三冬「水涸る」の子季語。沼の他に、川、池、滝など子季語にバリエーションがあります。冬の乾燥した気候で水がなくなり、水底が見えている沼。よくよく眺めてみると、地面に亀甲模様のような美しい正六角形のひび割れができています。下五「涸れなんと」は、作者が今こうして眺めている間にも涸れてしまいそうだ、という現在進行中の現象であることを印象づけます。文法的には「涸れなむとす」の動詞「す」が省略されているのでしょうか?

かえる:沼枯るが三冬の季語です。冬の少雨に沼が枯れ果てて、亀甲の如くひび割れた底が明るみに出ています。普段は目にすることのない紋様に目を奪われつつ、見てはいけないものを見たような気持ちになります。沼を潤すほどの雨が降り、程よく沼底を隠してくれると安心するのは人間の勝手でしょうか。普段目にすることのない場所に思いもよらぬものが出現すると、スピリチュアルな気持ちになりますね。その素直な感動をこの句から感じました。

えいいち:沼涸る、が三冬の季語。冬になって沼の底が亀甲にひびが入ってきた、もう涸れてしまう、と強い驚きと悲しみを作者は感じたのではないでしょうか。沼涸る、という季語の状況を実際に見たことはないのですが冬に河川敷の湿地が乾燥している状況は経験があります。上五中七の措辞から冬のかさついた空気感と水のない沼に枯れ色した葦や葦が立っている寂しい光景を想像しました。

せいじ:涸沼が三冬の季語。降雨量の少ない冬は水が一時的に涸れることがある。ひび割れの形が美しい亀甲形であったことに目をとめて、造化の神さまも粋なことをするものだと思ったのではないだろうか。

あひる:沼涸るが三冬の季語。日本の夏は梅雨や台風で大量の雨が降るが、冬場は雨が少なく山に積もった雪はすぐには融けださないので、渇水期は11月をピークに冬場となるとのことです。夏には勢いよく流れていた川が涸れ、川底が見えていた、あれは冬だったということに改めて気が付きました。この句では亀の甲羅のようにくっきりとひび割れている沼の泥が、今はまだ湿り気を帯びているけれど、白っぽく渇いてまさに涸れてしまおうとしている風景だと思います。深いひび割れは驚くほどです。こんな所にも句材があり、言葉があることに感動しました。