あひる:日向ぼこりが三冬の季語。死後のことを論じるのが、暗く寂しい場所であるか、日向ぼこりのような明るい暖かい場所であるかで、句の雰囲気は全く違うものになりそうです。ここでは何人で論じているのか分かりませんが、きっとみんなほっこりと暖かい気持ちになっていることでしょう。

むべ:「日向ぼこり」が三冬の季語。前半は作者がしていることその一、後半はしている場所、そしてしていることそのニでもあります。人は死後どうなるか、たましいは消えるのか、どこかへ行くのか…行くとしたらどこへ?古今東西人類が議論してきたテーマを、どこか広縁かサンルームのような場所で、冬日を受けつつ語り合っているのです。「炉話は創造論…」の句同様、キリスト者である作者ならではの視点や場の切り取り方だと感じました。「論じる」ためには、「自分はこう思う」というものがあるはずです。聖書をひもとき、作者は自分の信じる死後の世を相手に差し出しているのではないでしょうか。暖かい日差しは神の眼差し、そのやりとりを包み込んでいます。

澄子:「日向ぼこり」が三冬の季語。深遠な死後の世界を論じるという硬さと 日向に呆けてリラックスしている姿の対照落差に 一誦したとたん思わずくすりとなってしまいました。日向「ぼこり」という響きもほくほくしてて いかにも暖かそう。日向ぼっこは無防備でどこか魂がふわりと浮き上がっているかのような浮遊感というのか…… 日常の薄いヴェール一枚捲った向こう側にひろがる穏やかなあの世というものを感じました。

かえる:日向ぼこりが三冬の季語です。若い時には途方もなく遠い未来だった死。歳を重ねるにつれて誰しも段々身近に感じるようになってきます。生きていく過程で、ただ恐怖でしかなかった死が、受け入れざるを得ないものに変化していきます。翁たちが日向でぬくぬくしながら論じる死後の世界は、今は逢えぬ懐かしい人たちの待つ優しい世界なのではないでしょうか。決して怖くはないよ。でも、まだ行かないから待っていて。怖くはなくとも、やはりまだ生きていたい。某お笑い芸人さんのお子さんの名付けの由来である「生きてるだけで丸もうけ」は真理だなと思うようになりました。

康子:「日向ぼこり」が三冬の季語。「死後の世」と「日向ぼこり」の対比が面白い。これは論じてる最中のことなのか、それとも論じた後のことなのか。自分が論じてるのか、論じる人を見たのか。私は「論じて」の措辞により自分が論じた後に日向ぼっこをしているのかと想像してみました。白熱してしまった気持ちを日向ぼっこして落ち着かせているのかと考えてみました。日向ぼこりの季語により死後の世の論議が明るく見えます。

せいじ:日向ぼこりが三冬の季語。南向きのデッキのベンチか何かに腰掛けてお年寄りが日向ぼっこをしながらおしゃべりをしている。いつしか死んだあとのことが話題になった。誰も死後の世界を見たことはないが、ああでもないこうでもないと想像をたくましくしている。このような話になるとなぜか楽しくなるのである。この日溜まりがすでに天国のようだ。

えいいち:「日向ぼこり」が三冬の季語。この句からは老人同士が縁側で日向ぼっこをしながら自分たちが死んだ後のこの世はどう変わるのかな、死後のあの世はどんなところだろうかなどと話している情景が思い浮かびました。若い人が「死後の世」などと聞くと寂しい、悲しい気持ちになるかもしれませんがある程度歳をとりは人生を謳歌してきた大先輩方は死後の話などへのかっぱ、明るく楽しそうに話をしています。「日向ぼこり」という季語がその雰囲気を醸し出しています。