あひる:炉話が三冬の季語。囲炉裏や暖炉の傍でするよもやま話、世間話、くつろいだおしゃべりとのこと。席についてする会議場での議論と違って、無理に結論が出なくても良い、相手を追い詰め過ぎない和やかな会話であることが想像できます。炉に燃える炎が、ちろちろ揺れて、暖かい雰囲気を出しています。

かえる:炉が三冬の季語です。「はた」が何を意味するかと悩みましたが、はたまたの「はた」と解釈しました。楽しい仲間との食事の席、少しお酒も入り、博識自慢の1人が巧みに自論もとり混ぜて進化論について饒舌に語り出す。普段は温厚で大人しい別の1人が聞き捨てならじと創造論で抗弁する。ほかの仲間は目配せして、また始まったとニヤリと笑う。この正解のない議論は、恒例行事のようなものなので、今年もみんな元気で炉話のできることを喜びつつ、うるさい2人は放っておき、みなは別の与太話を始める、そんな愉快な仲間たちの光景が浮かびました。「はた」という言葉のチョイスにいたずらっぽさが感じられ、その場の楽しい雰囲気を増しているように感じます。ひょっとしたら作者が白熱する2人にわざとちょっかいを出して、仲間にやめなさいと言われたりしているのかもしれません。

澄子:炉話が三冬の季語。囲炉裏端で車座になっているのか ゆったりとソファに寛ぎながら暖炉を囲んでの炉話なのか想像が膨らみます。白熱してゆく議論と炉の火のパチパチ爆ぜる熱さが重なり、「論」のリフレインの重なりにリズム感があり簡潔な表現となっています。以下余談蛇足ですが この度またまた創造論という歴史的学問的概念があるということを初めて識りました!Wikipediaを読み進めたのですが膨大過ぎてお手上げ。日本人にとって進化論こそ身近ですが 世界には創造論を信じる人が沢山存在するということを初めて知った次第です。昨今はゲノム解析も進みあらたに地球外生命飛来説も唱えられるようになりました……様々なことを考えさせてくれた一句でした。

康子:三冬の季語「炉」子季語「炉話」により、囲炉裏等の温かい灯や、それを取り囲む気の置けない仲間、笑い声、また温かい食べ物やお酒などが想像できます。また外の静けさや、外から見た窓の揺れる灯もイメージできます。創造論、進化論のリフレインにより話が尽きない様子も感じられます。「炉話」の季語により、論議がヒートアップしたとしても楽しく、また笑いも交えて会話を楽しんでいる様子を想像します。気がつくと夜が明けているのかもしれません。この瞬間が作者にとって良い思い出になっているのかなと想像し討論の句にも関わらず温かい気持ちになりました。

せいじ:炉話が三冬の季語。クリスチャンの合宿のようなものを思い浮かべた。火を囲んでの炉辺の語らいは楽しく、初めて会った人ともすぐに打ち解けることができる。口が滑らかになってきたところで、誰かが創造論と進化論の話をし始めた。このようなテーマはクリスチャンでなければ出て来ないであろう。「はた」には二者択一を迫る響きがあるが、果たして、この場の議論はどのように進んだのであろうか。思うに、炉辺の楽しい語らいを壊すことにはなっていないであろう。

えいいち:炉話は三冬の季語。創造論かはたまた進化論か、相いれない二つの論を囲炉裏端で談義している様子だと思いますが、楽しい中にも炉の熱の如く熱く語りあっているのでしょう。囲炉裏の熱と弁の熱が重なり合い談義の熱中度の高さを感じます。

むべ:「炉話」が三冬「炉」の子季語。手元の『季寄せ』では「炉」と言えばふつう囲炉裏のこととありますが、囲炉裏か暖炉か想像すると楽しくなってきます。いずれにせよ、夕食後のひととき、お茶やコーヒーあるいはブランデー(燗酒?)などをゆっくり飲みながら、数人で暖を取りつつ語り合う光景が浮かびます。おしゃべりのテーマは世間話からいつしか聖書へ移り、キリスト者の作者に質問が投げかけられたのかもしれません。「進化論の教育を受けてきたのに、創造論を信じているの?」「人類を神が造られたと本当に思っているの?」「聖書に恐竜が出てこないのはなぜ…」などなど。ついヒートアップしそうなテーマですが、場を和らげてくれる炉の明かり、パチパチと薪の燃える音のおかげでゆったりとした気持ちで対話ができるのです。外はもしかしたら雪がしんしんと降っているかもしれません。冬の夜は更けてゆきます…