あひる:木の実降るが晩秋の季語。檄文を釘で打った人の激しい思いが想像されます。今はその生々しさも遠い昔のこととなり、檄文の板も釘も古びてしまっているのではないでしょうか。歳月は繰り返され、木には花が咲き実を結び、いま目の前で今年の木の実がぽとりと落ちました。作者は、檄文の激しさと穏やかで揺ぎ無い自然の営みのはざまに佇んでいるようです。

せいじ:木の実降るが晩秋の季語。大学のキャンパスを思い出す。騒然とした時代であった。檄文の内容は別として、檄文の提示の仕方のなんと苛烈なことか。しかし一方で、それを包み込むような自然の営みがある。この句を鑑賞しているうちにふと、マルティン・ルターが1517年10月31日にドイツのヴィッテンブルグ城の教会の門扉に95ヶ条の論題を貼りだしたことを思った。ここから宗教改革が始まる。

むべ:「木の実降る」が晩秋の季語。檄文とは、「自分の主張を述べて同意を求め,行動への決起を促す文書」だそうです。作者はどんなところに身を置いているのかなぁと想像してみました。どこか歴史的な場所だと思われます。釘を打って掲示されているので、木製の板・札のような材質で、しかも眺めていると木の実が落ちてきたので、屋外なのでしょう。檄文を読んだ大衆は、何か行動を起こしたのか、歳月を経て、今はただ自然の静謐だけが、檄文をしたためた人たちの情熱を包み込んでいます。

えいいち:「木の実降る」が晩秋の季語。檄文と聞いて思い浮かぶのは人それぞれだと思いますが、釘で止め打たれた檄文と解釈するとかなり昔のことなのでしょう。檄文の内容は知る由もありませんが結果としては長い時間が木の実を熟し地に降る如きことなのでしょう。