せいじ:秋思が三秋の季語。秋入日は、釣瓶落としの日というように、短時間で没してしまう。それが海上であれば、一部始終がみられるから、その短さがありありと分かるのである。そして、そのことに、秋のもの寂しさを実感したというのである。蛇足ながら、「海に日の」ではなく「海の日の」としているところに詩を感じる。海の太陽、山の太陽、草原の太陽、東京の太陽など、詩の世界では太陽は一つではないのである。

えいいち:「秋思」が秋の季語。古文が得意でないので間違っていると思いますが、海に日が落ちてゆく様を見ていると物思いに耽っていく、と解釈しました。秋の夕日が海に落ちてゆくただそれだけを見てるだけなのに心は物寂しくなっていく、とポツリと呟いて夕日を眺めている情景を思いました。どことなく人の心と自然とが繋がっているような感じを受けました。

むべ:「秋思」が三秋の季語。水平線の落日という絵はそれだけで感動を呼び起こすのですが、「秋思うべなひぬ」という措辞がこの絵を特別なものにしていると思いました。秋という季節、海という場所、そしてしみじみした情感が、夕日が落ちてゆくのを後押ししているようだ……そのように理解しました。